この記事は『不登校・ひきこもりが終わるとき』(照林社)より再構成したものです。
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 不登校やひきこもりを「生き方」と表現する支援者が多くいます。確かに、不登校やひきこもりを「問題」としか認識できないのは誤解ですが、だからといって「生き方」と言われても、何となく自分の実感と合いません。
 
 なぜなら「生き方」ということばには、不登校やひきこもりになることを、自らの意思で選んだようなニュアンスがあるからです。たぶんそういう不登校やひきこもりの人は、ほとんどいないでしょう。もし選んだとすれば、それは意思によるものではなく、無意識からの指令によるものだと表現するほうが適切です。
 
 私自身は不登校を運命的なものだったと感じています。なぜなら、不登校が終わったあとの高校生活で、私が体験した思い出深い出会いや活動は、その前の不登校がなければありえないものばかりだったからです。
 
 つまり私の不登校は、さまざまな体験ができる時期を迎えるための準備期間、言い換えれば〝天の配剤〞だったわけです。
 
 しかし、こうした〝運命論〞だけでは、人生の出来事は表現しきれません。そこで私は、不登校やひきこもりを「生き方」ではなく「生きざま」と表現しています。自らの意思によらず、いじめなどで否応なしに選ばざるをえなかった道、あるいは、気がついたときには選んでしまっていた道が、不登校でありひきこもりである、と私は考えるのです。そして、その道をひたすら歩いている、つまり不登校やひきこもりを生きている、それが彼らにとって生きているということであり、そのときにはわからないがいずれわかる何かに向かって、ひたすら歩いている。
 
 ――「生きざま」とは、そういう意味です。 

『不登校・ひきこもりが終わるとき』

丸山康彦 著
照林社、2024年、定価 1,870円(税込)
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不登校・ひきこもりが終わるとき【第4回】理解に必要な人生観・子ども観とは①