生きる道はひとりに一本ずつある

この記事は『不登校・ひきこもりが終わるとき』(照林社)より再構成したものです。
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 「生きる道はいくつもある」ということを言う人が増え、不登校を肯定する理由のひとつになっています。ただ「道はいくつもある」と言ったときの「道」のイメージに注意する必要があります。 

 一般的に〝子どもの生きる道〞と言ったら、大通り(メインストリート=通学している子どもたちが歩いている道)と、裏通り(横道・細道=不登校の子どもたちが歩いている道)のふたつがイメージされて、不登校の子は「横道にそれて道に迷っているかわいそうな子どもたち」と見られ、「早くメインストリートに戻さなければ」と考えられています。これが現代の〝常識〞です。 

 それに対して「横道だろうと細道だろうと、道は無数にあるのだ」とか「メインストリートが良いと思うほうがどうかしている」などといった、不登校を支持する人たちの〝脱常識論〞が〝常識論〞と対立したりします。 

 一方、私は「道」にもうひとつのイメージを提案したいと思います。 
 私が人生を道にたとえるなら「道はひとりに一本ずつ用意されていて、人は自分だけの道を、生まれてから死ぬまでひたすら歩き続ける」というイメージになります。 
 各自に一本の道しかない以上、人は横道にそれたり(逸脱)、回り道したりということはありえません。誰もが、ひたすら一本の道を歩き続けているのです。 

 そしてその道には、平坦な部分、デコボコしている部分、石や雑草だらけの険しい部分、出口の見えないトンネルの部分、などがあります。 
 したがって、歩いている限り、誰もが険しい道を通過しなければならない時期があるわけです。 

 通学している子どもは、平坦か、多少デコボコしているくらいの道を歩いているといえます。そのなかで苦しい時期は「険しい道を歩いている」ということになります。 
 ところが歩いているうち、いつの間にか出口の見えない、照明のない暗いトンネルに入ってしまった――「不登校が始まった」ということは、そういうふうにたとえることができます。 
 出口の見えないトンネルを歩いているときは、非常に不安です。暗くて周りも先も見えない。怯えながら歩いている姿を想像することができます。 
 そして、そのまま歩き続ける(生き続ける)うちに、トンネルを抜けて先が見えるようになったり、険しい道を抜けて、歩くのが楽になったりするときが来るのです。

 道というものをこのようにイメージすれば、誰の道にも平坦な部分や険しい部分やトンネルの部分があって、それらを必ず通らなければならない、ということがわかります。 
 不登校やひきこもりというのは、道のなかのトンネルの部分、ということになります。言い換えれば、不登校やひきこもりは、その人の人生の一時期に歩く〝途中の道〞であるといえるのです。

『不登校・ひきこもりが終わるとき』

丸山康彦 著
照林社、2024年、定価 1,870円(税込)
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不登校・ひきこもりが終わるとき【第5回】理解に必要な人生観・子ども観とは②