ある対象に名前をつける、その名前のつけ方は恣意的である。これが構造主義の考え方です。言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールが創始者だといわれています。じつはソシュールではないという説もあります。そんなささいな問題はどっちでもよいという説もあります。

 構造主義では、ある名前(フランス語ではシニフィアンといいます。フランス語でシニフィアンとかいうと、なんとなくかっこよくなってトレビアンじゃないですか?)が対象としているもの(こっちはシニフィエといいます)の組み合わせは「恣意的である」としました。

 例えば、「犬」というシニフィアンはワンワン鳴いているあの動物、シニフィエとコンビになっているんです。カタカナでシニフィアンとかシニフィエとか書くとそんな難しい言葉はシランワンとなりそうですが、フランス語のsignifier(意味する)という動詞の現在分詞signifiant と過去分詞のsignifié のことなんです。英語のサイン(sign)も同じ語源からきていますね。「意味している」がシニフィアンで、「意味されてる」がシニフィエ、ってこと。トレビア~ン。
 
 じゃ、その何が「恣意的」なのかって話ですが、そもそも「恣意的」とは何か。
 
 恣意的、を英語ではarbitrary といいますが、「気まぐれな、勝手な、自由気ままな」みたいなことを意味しています。

 「恣意的」と「意図的」(わざと)は意味が違う、とエライ先生はよくおっしゃいます。確かに、「意図的な犯罪」とは言いますが、「恣意的な犯罪」とは言えません。けれど、「恣意的」は気まぐれ、思いつき、というだけでなく「都合のよいように」という意味にも使います。このときには「わざと」という感じもでてきます。

 なので、「恣意的」というシニフィアンが指す対象(シニフィエ)と、「意図的」というシニフィアンが指すシニフィエはオーバーラップしてるところもあるんちゃうかな、というのがイワタの見解。エライ先生にはチクらないでね。
 
 ま、だんだん「ブチ切れ」モードだったのが、「わけわかんない」モードに転じつつある読者もおいでかもしれませんが、そのへんはすっ飛ばして読み進めてください。必ず結論に行きますから。ちゃんと布石は打ってますから。
 
 繰り返しますが、構造主義ではシニフィアンと相応するシニフィエの関係は「恣意的」に決められます。例えば、「青」という日本語のシニフィアンが指す対象は、時に「緑色」の交通信号を含んじゃったりしますね。英語だと「green signal」ですから、英語圏の人はあれを「青色」とはみなしていません。青の英訳はblue ですが、青とblue では対象としているシニフィエに若干のずれがあるのです。皆さんの緑の黒髪(死語?)もけっしてアメリカ人が想定するgreen ではないわけで、まあ、そういうことなんです。少しイメージできました?