タバコの話、あなたはどう考えますか?

 患者さんの個人情報に抵触しないよう、脚色してお話しします。

 ある日、某疾患のために某患者さんが入院してきました。数週間の定期的点滴治療が必要なので入院は必須なのですが、ADL(日常生活動作)はフルで何でもできます。
 早速、外出希望を出してきました。外来でこの患者さんを診ていた僕は「ムムム」と思いました。以下、スタッフとの会話です。

「たぶん、タバコ吸いに行きたいんじゃないかなあ。この人、タバコ好きだし」
「ダメですよ。入院中にタバコ吸ったら、強制退院ですよ」
「だって、外出中でしょ。施設の外で患者さんが行うことなんだから、病院は関係ないでしょ」
「いや、外出中でも戻ってきたとき、タバコのニオイが残っていたら、強制退院らしいですよ」
「えー、そうなの?」

 結局、この議論はそれ以上追求されることなく、有耶無耶なままで終わってしまいました。徹底的に議論してもよかったのですが、たいていの場合、「グレーゾーンは徹底追求すると、ほぼ全例禁止になる」という原則? があるので深追いは禁物、とちょっと思ってしまったのでした。

 まず、入院中の施設内での喫煙
 これは問題外でして、アウトです。他の患者さんに対する有害事象になりかねません。
 無断外出をしての、施設外での喫煙
 これもアウトでしょう。これを許可したら、どんどん患者さんが外出してしまうのが目に見えています。
 とはいえ、
 きちんと外出許可を取り、施設外の認められた場所で喫煙する
のは、どうでしょうか。基本的に施設外での患者さんの行動について、医療従事者や医療機関は命令権をもちません。そこにまで禁止行為を広げてしまうのは、やや越権行為とは言えないでしょうか。

 もちろん、患者さんが禁煙してくれることが望ましいことは言うまでもありません。喫煙による諸々の健康被害は明らかで、「タバコを吸っても健康にはさしさわりがない」という主張は明らかに間違っています。
 しかし、たとえ望ましいことでも、医療従事者がそれを患者さんに強制することはできません。それができるのは「施設内では施設のルールに従うべし」が通用する、医療機関の中だけです。

 この問題は、一般化させれば、すぐに答えがわかります。医療従事者は「健康によい食事」を患者さんに教えたり、推奨したりはできますが、街でラーメンを食べている患者さんから、そのラーメンを取り上げる権利をもちません。
 そもそも、ある特定の病気を治すために入院している患者さんを強制退院させてしまえば、当該疾患は治療できなくなってしまいます。患者さんにとっては明らかにデメリットです。

 この患者さんはおそらく「ニコチン依存症」という別の疾患をもっています。こちらは別に対峙しなければならない問題ですが、仮に入院中に喫煙を禁じただけでニコチン依存症が治癒するわけではありません。
 したがって、外出中に喫煙した件の患者さんを強制退院させるという選択肢は、2つもっている疾患の1つの治療を確実に失敗させ、かつ、もう1つの疾患の治癒にもつながらないという「悪手」なのです。
 それならば、外出中の喫煙は(仮にニオイでバレたとしても)大目に見て、少なくとも1つの疾患は確実に治療するほうがより合理的ではないでしょうか。
 結果に責任をもつ。臨床医学では結果のことを、しばしばアウトカムといいます。結果、すなわちアウトカムが大事なのであり、この場合は2つある医学上の問題について、強制退院させる場合とさせない場合、どちらのほうが患者さんにより大きなアウトカムを得るか? という問題です。

 これをアウトカムではなく、「喫煙は悪、とにかく悪、許さない」というイデオロギーの問題に転嫁してしまうと、問題解決にはつながりません。損得勘定はとても大事なのです。このことは、もちろんニコチン依存症を看過、放置してよいという意味でもありません。
 しかし、ニコチンに限らず、依存症の治療は簡単ではありません。そして、依存症の治療は常に長期戦です。短期的な入院で決着がつくことは絶対にないのです。外来で長い時間を、ときには年単位の時間をかけての課題になるのです。

 ときに特定の専門医になるには、その医者が「喫煙をしないこと」を誓約しなければなりません。僕はこの考え方に反対しています。
 1つは、喫煙の有無は必ずしも医者の専門性を担保したり否定したりする要件にはならないこと。何?喫煙者は体力が落ちるから、激務に耐えられなくなるって? そういう詭弁を述べたいなら、専門医資格の要件に体力テストをいれるべきでしょう。そして加齢や不摂生、その他の理由で体力が落ちた専門医は、資格を更新できないルールもつくっておかなくては、理屈が通りません。
 もう1つの理由。ニコチン依存症はれっきとした疾患であり、治療の対象であること。ある疾患の存在を理由に、何かの要件を否定するのは差別的な行為です。医療従事者が疾患を根拠とした差別に加担してはいけません。

 こういうことを書くと、必ず「差別ではない、区別だ」とか「タバコのニオイで他の患者さんや医療従事者が不快になる」とか言ってくる人がいます。
 まず、およそすべての差別者が「差別ではない、区別だ」と言います。しかし、差別でなく、区別であるならば、それはあくまでも当該職種の遂行能力のみで判断すべきです。喫煙で人間の諸能力が低下する可能性はありますが、それは喫煙以外の条件でも同様です。
 諸能力の低下を根拠に専門医資格を否定するのは区別ですが、「他の原因での諸能力の低下」は看過し、「喫煙による能力の低下」のみを根拠とするのは、そして「喫煙していても能力が低下していない可能性」を最初から否定するのは、やはり差別です。ニオイを根拠とするならば、体臭その他のニオイも同じく否定の根拠にしなければ、やはり差別です。

 タバコ休憩を頻繁にとるのが許せない、という人もいます。しかし、これも職務のパフォーマンス「だけ」を根拠に判定しなければ、やはり差別的と言えるでしょう。問題は休憩をとるかとらないかではなく、全体としての仕事のパフォーマンスそのものなのですから。
 実際、喫煙に限らず、適度に一定間隔で休憩をとったほうが人間のパフォーマンスはよいものです。タバコ休憩をとることで職務のパフォーマンスが落ちている場合にのみ、そのパフォーマンスの低下自体を難詰の根拠にすべきなんです。
 休憩をとることそのものを否定の根拠にするのは、
「夜遅くまで残業するのが偉い」
とか
「休日でもサービス出勤をするのが偉い」
といった古き悪しき昭和のど根性主義、あるいは
「私は休憩してないのに、あの人はしている。クヤシー」
という古き悪しき昭和の同調圧力的過平等主義にすぎません。

 日本だけでなく、世界中を騒がせた例の某案件でも明らかになりましたが、ギャンブルに限らず、世間は依存症という疾患一般にあまりに差別的です。すべての患者の味方であるべき医療従事者すら、非常に差別的です。
 僕は「感染症」という因果な生業をしていますから、本当はあってはならない患者差別、疾患差別が厳然として医療界に存在していることを知っています。もちろん、この問題は日本だけでなく、世界中にある深刻な差別問題です。しかし、問題の存在、遍在は、その問題を正当化しません。「世の中はそうなっている」という現状説明は、「世の中はこのままでいいんだ」という現状肯定を意味しません

 患者さんのアウトカムを、患者さんの利益を考えれば、入院患者が外出中に行った喫煙は看過するのが、より合理的です。その理路はすでに示しました。
 ロジカルで合理的なのは、よいことなのです。しかし、医療従事者の感情が、その正義感が、ときにそのイデオロギーが、あるいはその好悪の感情や価値観が、それを許しません。
 しかし、それって「患者中心の医療」ではなくないですか? それは「医療中心の医療」ではないでしょうか。
 患者中心の医療はスローガンではありません。あってはなりません。本当の意味での「患者中心の医療」を遂行するためには、医療従事者はもっとタフでなければなりません。やさしいだけではダメなんです。自分の好みや感情を抑えるタフさ、自分のイデオロギーに流されないタフさ、理路を徹底し、詭弁に逃げないタフさが必要です。「患者中心の医療」って結構、しんどいのです。

この記事は『エキスパートナース』2024年6月号特集を再構成したものです。
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