急性期病院一筋で働いてきたWOCナースが、40歳を目前にして訪問看護に挑戦!いよいよ訪問看護ステーションに転職したものの、仕事がなく営業ばかりの日々で…。リアルな体験記をお届けします。
看護師人生第二幕開演!…でも仕事がない?!
「よしよしよしよし、念願の在宅キター!!!やったるでぇ。やったるでぇ。やったるでぇー!皮膚・排泄ケア領域はぜーんぶ任せて!このエリアの症例は全部とって、元いた病院を見返してやるー!それが私の恩返しだー!」。
意気込んではみたものの、私が転がり込んだ新しい就職先は正社員が2名と他バイト2名の少人数で、2年前にオープンした訪問看護ステーションでした。社名は「N-art訪問看護ステーション」。電話口で社名を伝えると、ほぼ100%聞き返されるややこしい社名。でもこの訪問看護ステーションに決めた理由の1つは、N-artの“N”には“ネスレ=寄り添い”という意味が込められていたからです。コロナ禍で寄り添い迷子になっていた私には、この“N”がとても魅力に感じました。
そんな「N-art訪問看護ステーション」に、私と救急看護出身の同級生が加わって正社員が4名!私はクリティカルケアが苦手な分野なのでこの同級生がいてくれて、そして私も加わることで、われらに死角はなし!ターミナルケアであろうが、褥瘡ケアであろうが、何がきても対応できる。「フッ……勝ったな」。
こんな感じのアホな皮算用を脳内で繰り広げながら、私の訪問看護ライフは幕を開けました!!私にとっては、看護師人生第二幕開演という感じ!
……でしたが、仕事がない!いや厳密に言うと仕事はあったのですが、私のほしかった仕事がこない。入浴介助、看護師のリハビリ、セクハラの対応、在宅でのコロナ対応……。あれ、ここにWOCナースいますよー?ストーマや褥瘡で困っていませんか?あれー??
待っていたのは何と営業。「思っていたのと違う!」
病院と違って、仕事はとってこないといけないのが在宅。つまり、“営業”をしないといけないのです。これは私にとってめちゃくちゃ衝撃でした。
自分を地域に売り込んで、認知してもらわないと自分の分野の仕事なんてきません。もしくるのであれば、それはただのラッキーパンチです。運がいいだけでは長続きしません。在宅で仕事を安定させようと思ったら、“営業”は避けられないのです。病院から在宅にきた私は、この“営業”の意味がわからなかった。それどころか、営業すること自体が恥ずかしかったのです。
あれだけ“自分の分野の仕事がほしい”と渇望していたのに、「仕事ください」と正直に行動することがカッコ悪いと感じていました。はじめはポスティングですら、自分よりも10も年下の社長に同行してもらわないとできませんでした。今だから笑いながら(この原稿を)書けていますけど、当時はプライドが高かったんですねー。とんだ勘違いですよね。
これを読んでいる皆さんは、この過去の私にイライラされていると思います。私も書きながら「何様やねん、こいつ」と思っています。お恥ずかしいし、申し訳ないです。でも、これが当時の赤裸々な私です。お話を続けますね。
手応えのない営業の日々に、やがて笑顔は消えて…
営業先は病院やクリニックだけではなくて、ケアマネジャー(以下ケアマネ)さんの所にも行かせていただきます。病院時代、ケアマネさんにはとてもフレンドリーに接してもらえていたので、よい印象をもっていました。そのため、ケアマネさんへの初めての営業は緊張しつつも満面の笑みで、「N-art訪問看護ステーションの森本です。資格は、皮膚・排泄ケア認定看護師です。よろしくお願いします」とあいさつできました。
すると、「えぬ、何です?皮膚、何です?」と聞き返されました。もう一度お伝えしましたが、リアクションは薄く、私はパニック。会話は弾まず、そのまま試合終了……。私のケアマネさんへの初営業はとても無残なもので、その後も何か所か回りましたが、どこでもよい顔はされませんでした。
心のなかでは「病院のときは笑顔で対応してくれていたじゃないですか!じつは在宅って、褥瘡で困ってないの?何でそんなに興味なさそうなの?社名がややこしいから?もしかして、チビなおじさんやから?」という思いでした。こうして、何回も手応えのない営業を繰り返していくうちに私の笑顔は消えていきました。
WOCナースの肩書は、病院だから通用していた
ははーん。勘の悪い私がようやく気づきました。何がって?あの病院だからこの私が通用していたという事実に気づかされたのです。
私は、それまで急性期病院であるその病院一筋で働いていました。いわゆる生え抜きです。そこでは、私が就職した時代は男性看護師の一般病棟採用が始まったばかりでした。私は自分でいうのもなんですが、先輩のお姉さん看護師にちやほやされて育てられました。
そして、私がWOCナースの資格をとる前からすでに同じ分野の先輩がいて、私はそのレールに乗っかって決められた仕事をしていました。だから、WOCナースのことをまわりが認知してくれていたし、WOCナースの実力をわかってもらえていて、医師や他の職種の人たちとも関係が良好でした。
WOCナースという肩書が、病院で認識されていただけだったんだ……。私自身の実力を認めてもらっていたわけではなかったんだ。このギャップに気づかされたとき、自転車に乗りながら静かに泣いてしまいました。2人の子どもをもつ、40手前のおっさんが自分の実力のなさに気づいて泣いちゃったんです。
勤めていた病院の元上司が、いつかの研修で一緒になったときに「森本くんはいつになったら帰ってくるの?」と言ってくれた甘い言葉を胸に、「何とか病院に戻れないだろうか」と“撤退”の二文字が頭をよぎることもありました。
でも、それと同時に悔しかった。
病院に守られていた自分が、外に出たらこんなに活躍できないだなんて悔しかった。
ここまで育ててくれた病院に対しても申し訳なかった。
だってどんな看護の仕事だって、
元の職場で教えていただいていたことが役に立つはずです。
辞めるきっかけとなったCOVID-19の対応だとしても。
「このままじゃ辞められない」。仕事を選ばず全力で向き合う
訪問看護をどこかでなめていた自分を戒め、それからの私はいただけた仕事は選ばずに全力であたっていました。そうしているうちに、月の訪問件数が150件を超えるときも出てきました。1つ1つの症例を大切に丁寧に行うことで、仕事がテンポよくいただけるようになり、実績を積んでいくことが何よりもの営業となっていきました。
しかし、私のやりたいことは一向にできず。モチベーションは上がらぬまま、気づけば訪問看護をはじめて半年が経とうとしていました。

次回に続く
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