「本人が復帰を望んでいるから復帰させてあげているのだ」――不登校の子の学校復帰やひきこもりの人の社会復帰を推進している教師や専門家や団体の方の、そんな発言や文章をよく見聞きします。
 
 確かに、前述のとおり本人の多くは「学校/社会に復帰したい」と本気で言います。その言葉に嘘偽りはこれっぽっちもありません。
 
 しかし、それなら本人たちはなぜ、担任の先生やクラスメートやメンタルフレンドの訪問を嫌がるのでしょうか。なぜフリースペースなど支援の場に行けないのでしょうか。なぜ就労支援を利用しようとしないのでしょうか。
 
 そして何よりも、なぜ学校/社会に復帰しても楽になれない人が少なからずいるのでしょうか。
 
 このように考えていくと「学校/社会に復帰したい」という、本人たちの「願い」の奥には、自分でも気づいていない「でも……」という「続き」があるとしか思えないのです。
 
 先ほど私は「本人の願いや思い」と「周囲の願い」というふうに、本人には「願い」のほかに「思い」があることを示唆しました。
 
 「でも」から始まる「続き」が、この「思い」に当たる部分です。
 
 それは「でも復帰できない」という〝現状を訴えるもの〞だけではなく「でもまず自分を創り直したい」「でも周囲に合わせるのではなく自分に合った生き方がしたい」「でも導かれるのではなく自分の足で歩きたい」「でも学校/社会への違和感と折り合いがついてからにしたい」などといった、複雑な心境や深い欲求も含まれています。