やっぱりコミュ力…?
そうではありません。コミュニケーション能力という、曖昧な言葉や概念は、私は取り入れたくありません。正直、私は自分のことを全然コミュ強者だと思っていません。
コミュニケーションなんぞに大切な時間を費やしてはいけません。費やすべきは職能を上げるための勉強です。技術を高めるぞという気概が、重要です。
勉強は知識をつけ、技術を高めるのに役立ちます。それをあきらめないこと。知識と技術を高めるために一部の人は経験(時間)が必要かもしれませんが、高まってくれば余裕ができます。余裕ができると人と穏やかに対話できるようになります。
ちなみに穏やかな対話の起点は、「余裕がある側が聞いてあげる」ことです。ただし、聞き手(教わる側)はそれに甘えてはいけません。このあたりは、今はまだはっきりわからなくて大丈夫です。
人のつらさはわからない
人は元気そうに見えても、つらさを抱えていることがあります。しかも、そういう人に限って、そのことを奥深くにしまっていて、他人からはとてもわかりにくくなっています。
安易に人の気持ちをわかった気にならないほうがよいです。そこで大事なのは、とにかく何か言葉にしてもらうことです。
その一番よいプラットフォームが「対話」なんです。自分は孤独だな、対話なんてできないなと思われる人もいるかもしれません。孤独だと思ってしまうことをとりあえず私は否定しません。むしろそう思える感性がある人なんだなあと、肯定的にリスペクトします。
ただ、私がそのような人とお話しているうち、自己愛特性が強くてそれをこじらせているんだなと気づいてしまうかもしれません。このあたりは連載でいつか取り上げましょうか。
励ます人になる
先ほど「いつも機嫌がよい人」という人がいるものだという話をしました。世の中はうまくできていて、人は「励ます人」と「励まされる人」の2つに分けられます。この読者のなかにも、教わることなく他人を励ませられる人が必ずいると思います。
私が一番主張したいのは、これはもう確信なのですが、「本当は励ませられる人なのに自分が励ます側だと思っていない人」「対話が不足しているために、言葉にできず励ますことができずにいる人」がいるはずだということです。これはもったいない。
なんか、励ますって青くさいですよね。もうその“よさげ”な感じにただ嫌悪感を覚える人もいるでしょう。「励ますなんてちょっと無理」みたいに鬱陶しく思う人もいると思います。
ですが、私は思うんです。そういう人は、その「励ますのなんてやだ」という気持ちを口にせずにいてほしいです。そういう空気が目立ってくると、励ますことができる人たちが口をつぐんでしまうのです。これが問題です。