NHK連続テレビ小説『風、薫る』の主人公のモチーフとなった明治のナース・大関和(おおぜき・ちか)と鈴木雅(すずき・まさ)。2人はいったいどのような人物だったのでしょうか。本ドラマの看護考証に携わる鈴木紀子先生に、現代の看護にも通じるポイントをふまえて教えてもらいました。
※本記事では当時の時代背景をかんがみて、歴史的な表現として「看護婦」という名称を使用しています。
NHK連続テレビ小説『風、薫る』
3月30日より放送開始。明治期、当時まだ知られていなかった看護の世界に飛び込み、激動の時代に新たな風を起こした2人のトレインド・ナース(正規に訓練された看護師)の物語。大関和さんをモチーフとした主人公・一ノ瀬りんを見上愛(みかみ・あい)さん、鈴木雅さんをモチーフとしたもう1人の主人公・大家直美を上坂樹里(こうさか・じゅり)さんが演じる。
大関和の生い立ちは?
大関和は1858(安政5)年、黒羽藩(現在の栃木県大田原市あたり)の家老・大関弾右衛門(だんえもん)の娘として生まれました。このころの日本はというと、5年前には黒船が来航し、洋学を導入すべきとの考えが広まってきている時代ですね。
和が10~11歳のころに起こった戊辰戦争で、黒羽藩は新政府軍側につきます。武士としての正義感を問われる父の姿は、その後の和の人格に影響していると思います。
和は元陸軍少尉と結婚して2人の子を産みますが、妾(めかけ)の存在が理由で離縁。妻側から離縁を言い渡すのは、当時は異例のことでした。
シングルマザーとなった和は、子どもと母を養うため、幕府の中国語通訳を担う鄭(てい)家の女中に。主人から紹介された英語塾で牧師・植村正久、そしてキリスト教と出会います。この植村牧師が、和に看護婦(トレインド・ナース)になることを勧めたそうです。
しかし、当時は看護婦という職業は知られておらず、身分の低い人の仕事である「看病婦」が一般的だったことから、誘いを断っています。
和は英語力を買われ、外国人との社交場だった鹿鳴館(ろくめいかん)の手伝いもするように。アメリカの看護婦学校で看護学を学んだ大山捨松(おおやま・すてまつ)ら、上流階級の人々と知り合います。
彼女たちから海外のトレインド・ナースの情報を得て考えが変わり、和は看護婦になることを決意。1886(明治19)年、28歳で桜井女学校附属看護婦養成所に1期生として入学するのです。
鈴木雅の生い立ちは?
一方、鈴木雅は1857(安政4)年、静岡県の士族・加藤信盛(かとう・のぶもり)の娘として生まれました。日本婦女英学校(現:横浜共立学園)で学び、英語がとても堪能でした。
陸軍少佐と結婚して2人の子どもを産みますが、夫は病没。「自分に看護の知識があれば夫のために何かできたのでは」との思いを抱き、和と同年、桜井女学校附属看護婦養成所に入学します。
ナイチンゲールの教えに出合った桜井女学校附属看護養成所での日々
2人が入学した桜井女学校附属看護婦養成所は、ナイチンゲール方式の看護を教える全寮制の学校でした。1期生は8人で、卒業生はそのうち和と雅を含めた6人。看護の知識だけではなく、掃除、洗濯、食事づくりなど、人間的な生活も重視したそうです。和と雅は同室で、切磋琢磨しながら看護を学びました。
来日が遅れていた外国人教師が着任するまでの間、生徒たちはナイチンゲールの『看護覚え書』を翻訳しながら、同時に医師からは解剖学、生理学、機械使用方法などを学びます。翻訳では、雅の英語力が発揮されたことと思います。
1年の座学の後は、帝国大学医科大学第一医院(現:東京大学医学部附属病院)で1年間の実習が行
われました。当時働いていた看病婦は寡婦(かふ)が多く、また、読み書きや算術といった基礎教育を受けていない人がほとんど。ナイチンゲール方式による観察や記録の大切さを学んだ和や雅たちにとっては、驚くことが多々あったのではないでしょうか。

看病婦の待遇改善のために病院にはたらきかけ
卒業後、第一医院で看病婦取締となった和と雅は、看病婦の休憩時間の確保や交代が課題だと気づきます。そこで、付添看護婦(入院患者の生活援助を行う看病婦)を廃止する方向で、看病婦の仕事から雑用を除くために、部屋付きの臨時人員を各科に1人ずつ配置します。結果、各科で看病婦が2人増員さ
れました。トレインド・ナースによる看護の質の重要性が病院に認知された結果といえるでしょう。
さらに和は、看病婦の2交代制などの待遇改善を求める建議書を提出。しかし、医師たちに聞き入れられず、第一医院を去って高田(現在の新潟県上越市)の知命堂病院の看護婦長となりました。
また、第一医院の看病婦の給与は、医学士や薬局取締といった男性職員と比べて安価でした(表)。雅
も1891(明治24)年に第一病院を退きますが、このような待遇も辞職した背景にあり、病院から独立して看護で自立する道を選んだのだと思います。

鈴木雅が日本初の派出看護婦会を開業
看病婦の待遇に加えて、第一医院の患者は上流階級ばかりで、貧しい人を救うことは難しい環境でした。雅は自分のやりたい看護を実現するため、日本で最初の派出看護婦会「慈善看護婦会」を開業します。派出看護婦会とは、家庭や病院に看護婦を派遣する、病院から独立した組織のこと。「慈善看護婦会」は、貧しい人に無償で看護を行いました。
雅は慈善を重んじながらも、看護婦が女性の職業として確立するように、正当な対価をもって看護を行えるしくみを整えました。労働環境を守るため、看護婦への雑用依頼の禁止、重病人看護の際の休息確保などの決まりを設けたのです。なお、経営の理由からのちに有償看護を行う「東京看護婦会」に名前を変え、和も同会を手伝うように。1909(明治42)年には和に引き継がれ、キリスト教の精神を理念とする「大関看護婦会」となります。
また、「東京看護婦会」の隣には看護婦の養成のため、講習所を開設。和も教員となり、そのほかの専
任教員や嘱託医師によって、実践的な看護教育が行われました。貧しい人が看護婦になれるように給費生の枠も用意され、女性の自立への道を開いていったのです。
今の看護にも通じる明治期の感染症対策
クリミア戦争におけるナイチンゲールのように、和と雅も感染症と戦いました。明治期は多くの地域で上下水道が整備されておらず、赤痢やコレラ、天然痘などが流行。和は知命堂病院の婦長時代に、赤痢の集団感染が起こった山村に駆けつけています。
そこで和が見たのは、下痢便が垂れ流し状態の、劣悪な環境の避病院*でした。まず、和が取りかかったのはトイレの整備。風下に穴を掘って厠(かわや)としました。汚物まみれの室内は拭き掃除をし、薄めた石炭酸で消毒。換気をする、患者の清拭の際は手ぬぐいを使い回さない、重症患者と軽症患者の小屋を分ける、滋養のつくものを食べさせるといった感染対策を行いました。
一方、雅は第一医院を退いた後、横浜からアメリカへ旅立つ予定でした。しかし、横浜で外国人居留
地の医師と出会い、貧民窟(くつ)で発生した天然痘対応にあたることになります。雅は医師と協力し、空き家を利用して患者を隔離。住民に種痘を接種していきました。雅は日本に留まることに決め、こちらで2週間、天然痘の感染拡大を阻止するために立ち回りました。
雅は派出看護婦会においても感染症対策に取り組んでいます。患者の家それぞれのルールを重んじながらも、患者を隔離する、換気を行う、食べ残しは捨てるなどの対策を実施。また、看護婦自身を守るために、白衣は毎日着替えてアイロンをかけることを徹底させたといいます。
*【避病院】明治期、感染症患者を隔離して治療するためにつくられた病院。隔離だけが目的の粗末な小屋の場合もあった。
『風、薫る』で描かれる明治のナース
女性の地位が低かった明治期、和と雅はトレインド・ナースを女性の職業として確立させました。『風、薫る』では、和と雅を“モデル”ではなく“モチーフ”としているため、生い立ちなど脚色される部分もあるようですが、ナースの先輩が女性解放の土台をつくったということを、ドラマをきっかけに知ってもらえたらと思います。
COVID-19流行下における看護は記憶に新しいですが、皆さんが実践している手洗いや環境整備といった感染対策の基本を、2人はすでに行っていました。明治のナースの努力が、今日の看護につながっています。
大関和・鈴木雅の生涯と時代背景

看護の発展
明治維新以降、日本は急速に近代国家への転換を進めました。中央集権体制の確立や教育制度の整備、医療制度の近代化などが次々と進められるなかで、看護もまた大きく姿を変えていきます。それまで家族や経験に依存していた世話の営みは、教育を受けた人材によって担われる専門的な仕事へと位置づけられていきました。つまり、日本の近代国家形成と歩調を合わせるように、看護も制度化・専門職化の道をたどったのです。
さらに、日清戦争・日露戦争といった対外戦争を始めるには、徴兵によって招集した国民である兵士らに対する医療の提供を約束するため、教育・訓練された看護者と制度の整備は不可欠であり、看護の発展を強く後押しすることになりました。これにより、看護教育の整備や養成体制の強化が進み、看護の社会的認知も拡大しました。戦争という非常事態は悲劇を伴うものでしたが、同時に看護を社会に不可欠な専門職として位置づける契機にもなったのです。
そして大正期に入ると、民主化の流れのなかで女性の社会的役割も少しずつ広がっていきます。教育機会の拡大や職業選択の幅の広がりは、女性が専門職として社会に参画する基盤を整えました。看護はその代表的な分野の1つであり、専門性の向上と社会的評価の上昇が進みました。看護職は単なる補助的役割ではなく、知識と技術を備えた職業としての地位を確立していったのです。
※この記事は『エキスパートナース』2026年4月号の内容を再構成したものです。当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載および複製等の行為を禁じます。

